4月4日

仕事のときも、ポノポノ式を勉強しているときも

共通して気になることがある。

言われた言葉しかとらえないで判断してしまうこと。

実は結構おそろしく感じている・・・・

たとえば・・・「PONOPONO式は、なんでもダメという、しつけの仕方なんでしょ?」と、思っている人たちがいる。
むしろ逆であるから、何故こうなってしまったかを推測すると、私が日ごろから嫌だなと思っている思考癖?が原因なんじゃないかと、思った。


例1)ブログで○○ハーネスは、○○な犬には不向きだ。と、書かれていたのを読んで、「○○ハーネスはダメだってさ!そう書いてあった。」と、言った人がいた。

例2)ドッグランで乱暴な遊びを覚えることが多い。ドッグランはよくないことが多い。と、書かれているまたは聞いて「ドッグランに行くこと=ダメ」と、考える。

例3)  ボール投げはいけない。と聞いて「ボール投げをは、いけない」と、考える。


何処が恐ろしいのか?と、いうと、何故いけないのか、何故よいのか?という理由を考えずに短絡的に受け取っているからである。

例1)でいうと、○○なタイプの犬には○○ハーネスは合わない。つまり、合う犬もいるということで、これが合う犬かどうかを自分でそこから判断しなければならないのである。

例2)でいうと、ドッグランでは興奮度の高い犬がいることが多いなど、まったりリラックスした状況にならない場合が多いから、そういう場所はよくない。という意味で言っているのだ。つまり、誰もいないドッグランなら、ゆったりしたノーリード散歩状態になる。もしくは広いお庭にいる状態になる。穏やかな犬ばかりだとお互いにまた良い状況となる。そのように判断しなければならないと思っている。

当たり前のことのように思えるが・・・このように受け取れない人が実際に結構いるのである。そして、そのほうが大手を振ってまかり通ってしまうことが多い
○○ハーネスはいけない。ドッグランはいけない。ボールで遊んではいけない。ということが一人歩きしだす。

そうして、少し聞きかじったり、上記のような人から聞いたりすると「あれもダメ、これもダメ。という、しつけ方」という風聞が流れてしまうのではないかと思った。

逆をいうと、あまり理論のないもののほうが早く広まる。考えなくてよいもののほうがいいのだ。
「こうしろ。これがいい、これは良くない。」という。その教えの通りにしているだけのほうが楽だし、気持ちがよい。そして、それが間違っていれば、すべてその人のせいにできるからだ。
自分は言われたとおりにしていただけ、何も悪くない。
(しかし、悪くはないが、その事態を引き起こしたのは自分自身であるし、他の誰かの責任でもない。と私は思っている。)


ちょっと脱線・・・


人に説明するときに注意しなければならないのは、「何故なのか?」という理論部分をキチンと説明できないといけないし、自分でも理解していないといけない。理論の部分が理解できていないと、本能や支配といった伝説的オカルト的な物語が出来上がるし、上記のように「あれもいけない、これもいけない」というだけのものになってしまう。
別にボールで遊んでもいいのだ。ただボールジャンキーにするような遊び方はよくないし、興奮度の高い場合は、やめておこう。遊ぶ場合はこうしよう。と、・・・ここが説明できるか、理解しているかが重要だと思う。


授業では理論部分を繰り返し教わるが、その意味がよくわかる。理論部分を理解していないと、やっていること全てがブレてきてしまうからだ。「ボール遊びはよくない」と聞き、「ボール遊びは絶対ダメ」などと状況も考えずに伝えてしまうと、そこからもう崩壊していってしまう。

理論部分が同じなのに、表出した方法が違うからと言って「違う違う」と、言ったりするのは、理解できないでいた。形式主義というのだろうか?いや、違うのかな?形式事態は好きだけど、形が同じなら理由は違っちゃってもいい。みたいのは本当に嫌だ。
PONOPONO式は、こういう部分を満足させてくれるし、安心させてくれる。